二心他体




あれほど分かると思ったアンタも、
一度体が離れてしまえば心もひどく遠くて、
ああ違うニンゲンなのだったっけとぼんやり思った

オレとアンタはそれぞれ異なる存在でしかなくて、
差し出された手を取ってひとつだと思ったのは、
それはただの一瞬の思い込みだったようで、
今じゃもう全然全く本当に、本当に何も。

アンタの考えていることなんて何にも分からない。



 コートが空くのを待ちながら、走りこみで火照った体を落ち着かせる。深く腰掛けたベンチのプラスチックが熱くなり過ぎた体温を逃がす。口にしたアルカリ飲料が胃に落ちるひやりとした感覚の傍ら、目の前でフォーメーションの練習を繰り返すふたりを眺めた。
『アンタに借りを返していない』
 自分はちゃんと告げたと思っていたのだけれど、思ったようには伝わらなかったようだった。夏はまだ遠いのに、いやらしい程照りつける日差しが肌を焼いた。久々に外に出した二の腕はチリチリと小さく痛む。つたい落ちる汗が肌に染みる。不快だった。
 笑い声が聞こえた。何が可笑しいのか、目前のコートを使用するふたりは声をあげて笑っていた。いや違う、声をあげていたのはひとりだ。何故だか座り込んだ桃城はいつもの様にかしましく笑う。もうひとりはその隣に立ち、ゆるく笑顔を作っていた。そして桃城の肩に手をかけ立つように促す。柔らかく自然で、奇妙に大人びた仕草だ。それがとても優しいのは、自分だけが知っていたことだった。過去形。放り出していた足を体に引き寄せる。ベンチの上で体育座りのような格好になる。両手でスネを抱えて、ヒザに額を乗せた。まだ火照る体はよけいに暑さを訴えたが、気持ちはかえって落ち着いた。そのまま、しばらく、じっとしていた。
「……気分、悪いんスか」
 ふっと、首や腕の辺りが軽くなったように感じた。違和感に下を向けていた顔を上げると、フィラのキャップをかぶった後輩が戸惑ったような顔でコチラを見下ろしていた。珍しい表情を見た、とぼんやり考えていると後輩は余計に困った顔になって、身じろいだ。その拍子に、目に光りが突き刺さる。ちりりと肌が焼けるように陽に晒され、さっき首筋や腕が軽くなったように感じたのは、越前が陽を遮ってくれたからなのだと気付いた。眩しさに目をすがめる。
「きもちわるいんなら、日陰に行ったほうがイイんじゃないスか」
「…………別に」
 越前が陽を遮ったことに気付くのと同じに、彼に見下ろされていることにも気付いた。だからどうした訳でもないが、妙に気持ちが苛々とした。そのためか、後輩が自分を(非常に珍しくも)気遣っていることが分かっているのに、邪険な返事をしてしまう――尤も、いつものことではある。その度に内心、自分の余裕のなさを情けなく思うのだ。勿論、今も。
 無愛想な先輩の扱いにはもうすっかり慣れている越前は、何でもないように「そう」とだけ返した。そして、ひとり分ぐらいのスペースを空けて隣に座ってきた。持っていたファンタのペットボトルのキャップを捻る。よく練習中に炭酸が飲めるもんだ、と毎度関心する。越前はこちらが不躾に眺めるのにも構わずペットボトルを傾けた。人工のオレンジ色が容器の中を流れていく。その色は陽に透けて綺麗に見えた。
 ゴク、ゴク。と二口も飲んだところで越前は口を放した。顔をしかめる。縦に戻されたペットボトルの中には三分の一ほどのオレンジ色が残っていた。ちゃぽん、と音をたてて戻ったソレは固まりのようになり陽を弾かない。綺麗ではなかった。
「ねえ」
 自分は甘ったるかったり炭酸が入っていたりする飲み物を好まないし、母親が体に悪いと言うのを何度も聞いているから着色料が入ったものも何となく嫌だ。しかし陽に透けた人工のオレンジ色は綺麗だと思った。本物よりも優しい陽の色だ。太陽を溶かして飲むようだと思うと、一口含んでみたい気分になる。それを見透かしたように、越前が言った。
「センパイのヤツ、ちょっと下さいよ」
「誰が。なんでそんなこと」
「こっちあげるから」
 はい、と越前にペットボトルを投げ渡され、反射的に受け取る。ベンチに置いていた自分のは、その隙に彼が手に取った。化繊の布で覆われたそれを、越前は物珍しそうにもてあそぶ。他人が自分のものに触れるのは本来、嫌いだ。だが、今は、どうでも良い。受け止めたペットボトルの中で、オレンジ色は荒く揺れた。小さな丸い球になって陽を弾く。綺麗。
「これ、何?」
「なにって」
 越前は自分の返事を待たず、カシャカシャと音の鳴るペットボトルのケースを剥いた。上のほうに水分がたまり、下には白く濁った氷が留まっている。外との気温差でペットボトルの表面は汗をかいていた。気付かず持った越前は手を濡らす。
「うわ…。へえ、凍らせている」
 冷たくて気持ちいい、と笑ってペットボトルに口をつけた。こうして当たり前のことに驚く様子はいかにも帰国子女だと思わせて、よそよそしさを感じる。後輩以上に彼を知っている訳ではないのだが。少し越前を哀れに思ったが、直ぐにそれは傲慢な考えだと気付いて打ち消した。いつのまにか越前に固定していた視線を、慌てて外す。
受け取ったままどうする事もなく玩んでいたオレンジ色の、キャップを外した。
 かたむける。容器に添ってオレンジ色が口元に向かう。目の直ぐ下で陽がはじける。眩しい。目をすがめた。太陽の色の向こうに、緑のコート。そこから向かってくる人影。薄い色の液体ごしに、そのひとが見える。表情まではっきりに。戸惑うような、不機嫌なような。感情を表す目元こそは訳の分からないメガネに遮られて見えないが、しかめた眉と少し開いた唇で、彼の考えは意外なほどに分かった。彼はとても判りやすいひとだった、そういえば。
 彼の影ごと、陽の溶けたオレンジ色を喉の奥に流し込んだ。雑に蓋をして越前に投げ渡す。越前はそれを特に不愉快にも思わず受け取り、ニヤリと笑った。どう、と見上げられる。自分のペットボトルも投げ返された。
「甘い」
 こちらを、ハッキリと不愉快を顔に出して見ている、自分よりも背の高い先輩を見て、言った。
 離れることもまた、快、だ。自分が分かってさえ居れば。



太陽を飲み込むイメージ。
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