傷口に触れる指



 あのダブルスは、彼に有利な点などほとんどなくて、練習と言えば俺のことばかりで、なのに、彼は俺の倍も練習していたらしい。正確には2.25倍らしいが(あれが彼なりの冗談であることに気付いたのは最近だ)。それは、つまり、俺との練習中、彼は俺に合わせることだけに専念していたということだ。仕舞いにはオレは思ったままに動いても、いつのまにか彼の作戦に添うようになっていた。『良いデータが集まった』と彼は笑ったけれど、三年でもうじき一緒には居られなくなる彼が俺のデータを集めることに余り意味はなかったはずだ。あれがオレを紛らわすためであったのに気付いたのは、立海戦のオーダーが発表されたときだった。我ながら、俺は人の気持ちに気付かない。だから、いつも後から酷く傷つく。そして、傷つく自分が、大嫌いだ。

「あんたばっかり、卑怯だ」
 いつものように自主練を終えて部室に戻り、お互いに背を向けて着替えていた時だった。不意に唸るように海堂がもらした一言には、後ろにいた乾にもハッキリ聞こえていた。今日は部活中に立海戦のオーダーが申し渡されていた。
 シングルスを切望していた海堂は、三度のダブスルに燻っているのだろう。そして、今回シングルスに起用されたオレを卑怯だと言わずにはいられない。
 乾はそんな風に海堂の心情を察して、着替えを続けたまま宥めるように喋りだす。口元は小さな笑みを作っていたが、幸い背中合わせの海堂に見られることはなかった。
「卑怯って、ねえ。一応三年だし、一応元青学ナンバースリー」
「違うッス」
「……そりゃ、海堂には負けたし、結局手塚にはボロ負けしたけど」
「違うッス」
「……何が、違うんだ?海堂はダブスルになったのが不満なんだろ」
「違う」
 乾が軽く投げる言葉を、海堂はことごとくあっさり切って返す。海堂は一言発するごとに、言葉の苛立ちを大きくしていた。乾が思ったよりも彼の不満はナイーブな部分にあるようで、乾は軽く流そうとした自分に、失敗したな、と内心舌打ちする。これは顔を見て話さないと分からない、と判断して乾は後ろを振り返る。着替え途中のシャツは両腕を通しただけの形になっていた。
「海堂、どうしたんだ?」
「別に、どうもしませんスけど」
 乾の声が真っ直ぐに届くようになったことは気付いているはずだが、海堂は振り返らずにそっけなく言葉を返す。袖のボタンを留めているようだった。
「じゃあ何でオレが卑怯なんだ?」
「アンタがダブスルに出ないから」
「……さっき、理由を言ったと思うんだけど」
 乾は訳がわからない。海堂は確かにキレ易い性格をしてるが、それ以外では普段から割合理屈の分かった性質だと乾は知っている。だから尚更だった。彼が何を思っているのか、知りたいと強く思う。
「アンタがシングルスなのに文句はねえッスよ。不二先輩と越前の次に強いのは間違いなくアンタだとオレも思う」
 海堂は一度そこで言葉を切る。両袖のボタンを留め終わった手でそのまま前髪をかきあげた。乾には、彼が言葉を捜しているように見えた。
「アンタがシングルスなのはいいんスけど、でも。アンタがダブルスじゃないのがムカツク」
 乾はきっちりとシャツを着込んだ海堂の肩に手を伸ばした。そのまま後ろから抱き込むように腕を回す。背筋にじんわりと、肌から直接体温が伝わって、海堂はいつの間にかきつく寄ってしまっていた眉間を解く。すぐ隣に、乾の顔があった。
「うん。オレがダブルスに誘って、練習もした。今度こそ勝ちたかったな」
 海堂の肩に顎を載せるようにした乾が、独り言のように言う。光りを通さないレンズのお陰で相変わらず表情は読み取れなかったが、笑うように両端がわずかに上がった口元は寂しげに見えた。その顔に、海堂の手がそっと添えられる。
「でもアンタはシングルスだろ。卑怯ッス」
「だな」
「お陰でまた桃城のヤローと組む羽目になったッス」
「悪い」
「もうダブルス組むこと、ないッスね」
「……手塚が帰ってこない限り、そうだろうな」
 海堂は乾の見えない目を、至近距離からじっと見上げる。乾も海堂をそっと見下ろした。まっすぐに乾を射る海堂の目に乾は顔を寄せ、閉じない目蓋に唇を押し付けた。しばしの沈黙。
 乾は唇越しに、海堂のまだまだ少年らしく青みがかった目蓋のあたりが小さく動くのが感じる。目蓋は次第に落ちていき、眼球のまるみを確認した頃、海堂はがぽつりと言った。乾の頬に添えられていた手が落ちる。
「……悪かったッス」
 海堂は、乾に言ってもどうしようもないことを当り散らした自分を恥じているらしかった。まっすぐに乾を見据えていた目は閉じられ、乾の唇から逃れるように下を向き、唇は固く噛み締められている。乾は海堂の腹に回した腕に力を籠めた。より近くなる体。立ち尽くす海堂を乾は後ろから抱きかかえる。もし今、誰かが入ってきたら、オレはどう処分されるのかなと、頭のどこかが考えていたが、それでも良いやと思えるくらいには海堂が大切に思える。
「謝るなんて珍しいな。でもオレはお前に謝られることは、ないよ」
「嘘だ。嘘じゃなかったら、あなどりだ。オレはアンタに甘えたくない。なのに借りばっかりじゃねえか。オレは嫌だ」
「それは仕方ないだろ。オレはお前より少なくとも一年先輩でお前より長くテニスをやっているから、お前より余裕がある。単に有利なだけだ、気にすることじゃない」
 吐き捨てるように強く発せられた海堂の言葉に、乾はさらに強い言葉を重ねてそれを打ち消した。海堂は下を向いたまま答えずに、ただ重心をそっくり乾に預けた。回された腕と背中全体から伝わる高い乾の体温は、海堂をほっとさせる。けれど、この安心感こそが、海堂を一番苛立たせるものだった。海堂は自分が乾に何ひとつ返せないと思い込んでいて、乾はその苛立ちを理解できないから。

 俺は人の気持ちに気付かない。だからいつも後から酷く傷つく。そして傷つく自分が大嫌いだ。その傷に触れられるのはたまらなく痛いのに、彼は気付かず手を伸ばして笑う。たまらなく痛いのに、それ以上に離れたくないのは、その手があまりに暖かいせいだ。



傍から見れば幸せなのに幸せになれない人たち。
20040308up